Y.SO.13

 

「さぁ、俺を殺すのは誰だ?」

 

 そう言って、黒衣の男は挑発的に笑った。爛々と光る金の瞳。じゃらりと音を立てる二本の鎖。すらりと伸びた矛も、おぞましく響く声も、遠く離れた会場のものだと分かっているのに、鳥肌が止まらない。

 アレは、本物だ。

 本物の、魔王なんだ。

 頭では言葉にならなくとも、己の肉体が雄弁に語っている。今すぐにでも世界が滅びてしまうような、今まさに命が生死を彷徨ったような、腹の底がひゅっと冷えるこの感じ。認めたくはないが、それはまさしく恐怖の体言化だった。

 

《絶望的で圧倒的なこの実力! 誰もが恐れ、誰もが期待するしかない!》

 

 画面の奥、興奮した情報屋の職員が声高々に宣言する。

 同じく西大陸ではあるものの、ここからはずいぶん離れた場所にある王都「毘」。そのスタジアムには、この日も大勢の観客が詰めかけていた。

 なにをしに? そんなもの、決まっている。

 

《総決算ラグナロク、TA期の優勝は、もちろん―》

 

 大観衆が見守る中、男は黒いコートを翻す。焦点を合わせたカメラに、アップになった口元が怪しくうごめく。声音は歓声にかき消されながらも、その言葉はなぜか、解る。唇が視覚に直結して、物語る。

 男が、告げる。

「わがなを、さけべ」

 

《……ミラージュ=アラン率いる魔王軍組織、ヴィランズ!》

 

 見張らったかのようなタイミングで、その名が空間に轟いた。

 会場が湧く。

 その様子を、ただ見ていることしかできなかった。

 セピア色の記憶。

 夏だった。入道雲が美しい空の下、恐怖の余韻残る腕にスイカの汁が伝う。暑い西日が肌を焼く。なのに、妙な寒気が止まらない。ぞわりぞわりと這い寄る恐怖から逃げたいのに、視線は映像に釘付けになる。意識を逸らすことすら許されなかった。

 やばい。

 つよい。

 すごい。

 広大なスタジアムの真ん中で悠然と笑う男の映像を眺めながら、俺、こと昴・蔵槌は、そんな感想しか述べることができなかった。幼稚で稚拙な言葉の羅列。しかし、その単語がすべてを物語る。他人に通じるかは、置いといて。

  Y歴 TA期 15年。当時の俺はまだ十歳だった。

 あれから三十年が経ち、それでもなお、あの衝撃は色あせていない。おぞましく強く、果てしなく遠い、魔王という存在への憧憬。 

 

「魔王って……マジですか?」

 

 キメラ特別対策室、配属二日目。

 作業スペースのないデスクを片付けながら、ファイルの置き場を尋ねるついでに、昴は事務所の奥に向かって声をかけた。

 思い返せば、ラグナロクの記録を追いかけるようになったのはアレが原因かもしれない。幼い頃映像で見た総決算ラグナロクの試合。あれから大人になるにつれて、強者への興味は尽きるどころか深くなる一方だ。

 とりわけ組織ヴィランズが好きということではなく、ラグナロクというイベント全体が好きだった。

 だが逆に言えば好きなだけだ。ラグナロクの有名人だからといって、誰が魔王になんて会いたいだろうか。あんなのは映像の向こうの存在で十分だ。おいそれと会い見える相手ではないし、出会ってはいけない相手でもある。

 それがもう後数日も経たずに、目の間に現れるだなんて。

 しかもなんだ、一緒に仕事って。協力者ってどういうことだ。

 実感が湧かなかった。関連性と突拍子がなさすぎる。喜んでいいのか絶望したらいいのかの判断もつかない。

 けれども室長は、デスク用のミニ箒を片手に軽ーく「せやでー」と肯定する。棚の奥から顔を出し、まるで信用していない新人の顔を見て、苦笑するように言葉を続けた。

 

「全っ然信じてへんなぁ! ちゃぁんと、正真正銘、魔王ミラージュ=アランの協力やで?」

「いやでも、それならむしろ魔王何やってんだよ、って思いますし……」

「せやかて、昴くんもあいつの仕事って知らんやろ?」

「……それはまぁ、確かに」

 まったく嫌味を感じさせない指摘に、渋々ながらも舌を巻く。魔王が普段どんな仕事をしているのかまでは、昴もよく知らなかった。

 分かっているのは、ラスボス戦依頼を受け、勇者の全財産と世界の命運を賭けたバトルを生業にしているということぐらいだ。それも、勇者を目指している友人から聞いた話であり、これ以上の噂となると、途端に信ぴょう性がガクンと下がる。

 城に行った勇者のほとんどが生きて帰ってるとか。

 魔王の軍勢内は実は仲がいいとか。

 予約なしでラスボス戦に行っても普通は断られるのに、高級菓子折りを持って行ったら受けてくれたとか。

 実は街中でアイス食べてる魔王の姿が時々発見されるとか。

 魔王よりもそばに控えている手下のエルフの方が実は強いとか。

 平和維持法人HEROと裏でつながってるとか。

 HERO筆頭のレビン・アールヴヘイムと実は親友の仲だとか。

 どれもこれも眉唾物で、信用できる情報にはなり得ない。

 

「アランのとこな、依頼事業も請け負ぅとんねん。仕事内容は要相談やけど、内容と報酬と依頼人の人柄次第でいろんな仕事受けてくれるんや」

 フォードは、いくつかある机のうち、端にあった一つが完璧にきれいになったのを見て達成感に浸る。

「それで、魔王に協力を頼んでキメラ駆除を、ってことですか?」

 すぐさま次の机に手を伸ばした昴は、首をひねったまま事情の理解を示した。片付けようと掴んだファイルを確認のため差し出す。

 しかし室長は、受け取ったファイルを開きながら、一言唸った。

「正確にはちょっとちゃうねんなー」

 ファイルを小脇に挟み顎に手を当て、何が楽しいのかニヤニヤと笑って語り始める。

「というのも、魔王ンとこの協力が受けられそうやから、この部署はできたんや。キメラの力は《予想外》。何が起こるかわからへん。大きすぎるくらいの力を用意しても、それでもまだ安心でけへん。だから、そこを解決せぇへんとキメラ駆除業務は成立しぃひんって後藤社長が言ってな。戦闘強くて、手伝ってくれるところって言うて、『魔王』の名前が上がってんな」

 前回のラグナロクは、交渉権を得るための接待でもあったんや。

 

 まぁ、接待でラグナロク出たなんて言うたら魔王は絶対話聞いてくれへんからな、これオフレコやで。まぁ目標の一つやったと思うといて。でもなぁ、アランって気にいらへん奴の仕事は受けへんらしいから、まずお知り合いになるまでがホンマ長かったわぁ。 

 全く困ってなさそうな笑顔で、フォードは「大変やったわ」と頷く。

「……つまり、」

 昴はその台詞に作業の手を止め、たっぷり間を取ってから口を開いた。

 陰る灰色の瞳。その表情は明るくはない。

 「この部署ができた最初から、だれも、人間だけでこの業務をこなせるとは思っていなかった、ってことですか? 魔王の協力がある前提じゃないと、キメラ駆除はできないと?」

 それは、夢を壊すような響きを持っていた。そして、多少の失望も含まれていた。人外の力を借りることを頭ごなしに否定するほど子供っぽい考え方はしていないが、人間の力の可能性を全く信じないではなから助けを借りるという諦めた考えも、ちょっとどうかと思うのだ。 

 しかし、隣のデスクにまでやってきたフォードに、昴の糾弾が届いた様子はなく。なだめすかすような相槌の打ち方は、こういったやり取りが慣れたものであることを示していた。それはつまり、昴の疑問もまた当たり前のことで、かつ答えが「是」であると……。 

「社員だけでも退治に、行けるんは行けるんやで? でも、キメラはただの魔物やない。この業界に入ってきたんやったら、ある程度の怪我もたぶん覚悟の上やとは思うけど、だれが好き好んで討伐隊全滅なんてしたいと思う? 保険費用もえらいことになるし、なによりキメラ駆除の解決になってへん」

 

 静かで軽い口調だが、断定した空気を持っていた。

 フォードは言葉を続ける。普段はふわふわといい加減な発言が多いキメラ特別対策室室長。その頬に走る傷跡から、しなやかに強く、はっきりと言い切る意志が、飛び出した。

 

「目的のためなら、手段は二の次や。絶対に、最終的には、生き残ってなんとかせなあかんねん。それがキメラ特別対策室の活動条件」

 

 誇りを感じさせる笑みを、口元にたたえて。

 これで手にティッシュペーパー持ってなかったらかっこよかったんだけど。

「…………」

 午前十時前の現在、事務所にベレルはいない。朝から別件で出ていると聞いている。「掃除に集中してくだサイ」とばっさり切り捨てる声がないことに甘えて、昴は卓上モップを手にしばし考え込んでいた。

 室長の言うことは分かる。たとえどんなキメラが現れたとしても、絶対に勝たなければならない。

 だから、……魔王の力にすがる。

 この部分がやはりどうしても引っかかっていた。相手が相手なだけに、受ける印象はまさに「悪」の形をしている。 

 ……ヴィランズは、確かに強い。

 鮮やかでおぞましく、威圧的で圧倒的な、あまりにも現実離れした力。

 

 昴は窓の外を見る。晴天の空に黒々とそびえたつ魔王城の姿を見て、無意識のうちに息をのんだ。

 東大陸一の大都市「義」。

 キメラ対策室の勤務地となったここに来るのは、人生で二度目だった。

 

 八年前、昴は一人でラグナロクを見に行っている。十歳の時に見たあの衝撃を胸に、アルバイトで稼いだわずかな旅費を手に、この街まで短い冒険に出た。

 目の前で行われるヴィランズの第一試合。スタジアムには、あのミラージュ=アランがすらりと立ち、長柄の矛を掲げていた。

 金の目がゆっくりとスタジアムを見渡すと同時に、ぞくぞくと背筋が凍る。静まり返る競武場を、いまだ昨日のことのように思い出す。

 画面の奥で感じていた冷気を、直接的に身に受ける。

 顔がこわばる。

 それでも、目が離せなかった。

 強烈な存在感。

 容赦ない攻撃も、仕組まれた罠も、巧妙に考えられた作戦も、すべて受け入れたうえで力任せに打ち破る。

 次の瞬間、スタジアムに立っているのは黒衣はためく魔王の姿だけだった。

 

 暴力的な破壊力。爽快感すら覚える。見ているだけで、果てしない高揚感に襲われる。

 しかし一方で、これを肯定してはいけないという抑制力が脳のどこかに働くのだ。

 なんというか、主人公に勝つために禁忌の力とかに手を出しちゃってダークサイドに落ちていくライバルキャラのような、傍から見ていて「あーあかんやつ、あぁーコレあかんやつ」って思われている闇落ちフラグような、要は最後に最良の結果を出すとは思えないというそんな感覚が、魔王に対して好意を持つ心の袖を引く。

 決して認めてはならないという先入観に、従わなければいけないと本能が言っている。

 それはきっと、誰もが持ち得る感情なのだろう。組織ヴィランズを好意的にみる感想は、誰もが皆緘口令を布かれたように口を閉ざす。

 理由も何もなしで、マイナスの感情を持たねばならない絶対悪。それが魔王なのだと、どこか理解していた。

「でもやっぱり、なにもヴィランズに頼まなくたって……」

 魔王の手を借りることすら、悪魔に魂を売ったような気になる。……違う、そんな気持ちにならなければいけないのだ。

 なのに。

 

「なんでや? 魔王ええ奴やで?」

 室長は、ぽつりと頭をかいた。世界の理に逆らって告げるその一言は、ある意味最高に耳を疑うもので。

 嫌いか? とあっさり続く質問に昴は目を見開く。

「いや、嫌いというか……、……世界にはほかにも強い人がいる中で、なんで魔王? と思っただけで……。ほら、最近だったらHEROとかもあるじゃないですか……」

 その質問が存在することにも、回答を出さねばならない理由にも、何故、という疑問がわいてくる。昴がしどろもどろに返す言葉は頼りなく、明らかに力がなかった。

 フォードはその返しを笑わない。

「せやなぁ、あっこも依頼したらいろいろやってくれるもんなぁ」

 傷跡が歪むほど目尻を下げ、それでもはっきりと言い切る。

 

「……でもな、勇者やったら、あかんねん」

 

 ――その組織は、彗星のごとく現れた。

 昴は八年前をもう一度思い出す。総決算ラグナロクRE大会、決勝戦。

 

『勇者たちよ! 今こそ立ち上がる時だ!』

 

 魔王ミラージュ=アランを前にして、指揮を執る女性は猛々しく宣言した。

『我々、平和維持法人HEROは、今日世界に産声を上げる! 百年に渡りこの世を脅かし続ける魔王を、必ずや打ち倒す! 大陸中に散らばる勇者たちよ! 我らのもとに集いたまえ!』

 それは、希望の芽生えだった。

 そして、救いの始まりだった。

 魔王軍組織に倣うかように劇的な誕生を宣言した組織は、大観衆の前で堂々と世界の安寧と平和を誓う。

 

 名ばかりの、力の伴わない組織だったならそれまでだっただろう。目の前が真っ暗になった勇者の姿は、これまでの試合でも数多くあった。敗者に残るのは、悠然と嗤う魔王の「健闘を称えよう」の一声のみ。本人には屈辱であろうそのセリフを、スタジアムの中央でまた聞くことになるのかと、観客はどこか期待して試合の終了を待った。

 しかし。

 決勝戦最後の戦い、HEROの筆頭レビン・アールヴヘイムは、魔王相手に互角以上の試合運びを見せる。

 ここまで五大会連続で圧倒的な優勝を飾ってきたヴィランズの経歴に、初めて傷をつけたのだ。

 

《こ、これは……、記録的、いや、歴史に残る試合になりました―!》

 

 それは、世界の契機だった。

 そして、新時代の幕開けだった。

 これまで個別の孤独な戦いを強いられてきた勇者たちを統括する組織が、この世界に誕生したのである。

 

 平和維持活動法人HERO。

 

 勇者を集め、育成し、魔王を倒すために出撃させる機関。勇者になりたい者は、まずこの組織に所属し、力をつけるところから始める。そしてゆくゆくは、魔王を討伐するために出発する。

 力、と言っても毎日体を鍛えるだけではない。ある程度の階級を経た者は民間の難題処理の業務を負う。内容としては、魔物の討伐や事件の捜査、犯罪の取り締まりなど、一般人が簡単に解決できない問題はすべて業務に含まれるという。

 昴の友人もまた、そういった依頼事業をクエストとして引き受け、処理の難しい魔物討伐や被害の再発防止に努めている一人である。クエストの難易度と処理数に応じて組織から点数が与えられるのだという。点数をためれば、新しい魔法やより良い武器が解放され、さらに勇者としての徳を積むことができる、とも言っていた。

 

「世のため人のため、正義を執行する組織。それがHEROのはずですよね。キメラ問題の解決、って一番合ってるんじゃないですか?」

 

 キメラ生成なんてものは、人道に背いた悪の行為に他ならないのだから。

 昴の説得は正当性を主張する。フォードもまた、まぁ普通に考えたらせやろうなぁなんて同意を紡ぐ。

「でもなぁ、あかんねん」

 しかし、その最後にはやはり否定が繰り返された。聞いた瞬間は納得したかのように少しだけ眉をあげるが、その後優しく垂れた目が意見を変えるつもりはないと決定する。

「………………」

 薄く笑みを浮かべる唇はそれ以上の言葉を発しない。なぜ。どうして。これ以上尋ねることすらも、ぼんやりと不明瞭な空気が漂う中でははばかられて、双方が沈黙を作る。

 

 静寂。

 

「…………なら、実際に会って確かめればよいのデハ?」

 ガチャン! と入口が閉まる大きな音に、バッと顔を上げ振り返る。

「おお、ベレルちゃんおかえり。おはようさん」

「おはようゴザイマス。それと、ちゃん付けやめてクダサイ。セクハラデスよ」

 そこには、昨日と変わらずビシリとスーツを着こなした先輩が立っていた。

「……おはよう、ございます」

「元気がありまセンね。そんな調子ではこれから大変デスよ」

 

 眼鏡の位置を直しながらの開口一番。見透かしたような発言にドキリとする。ツカツカと目の前を歩いていく姿を、見送ることしかできない。

 漆黒のショートスカート、皺のきれいに入った後ろ姿。せっかくきれいにしたデスクの上に躊躇なく荷を置き、ベレルは背中で告げる。 

「……魔王なんて呼ばれていマスが、あの方はそんなに気難しい方ではありまセン」

 ぽつり。丁寧に言い切る口調に、室長が同調した。

「せやねん! 会ってみたらな、あいつ結構ええ奴やから! ええこと言うたベレルちゃんには飴ちゃんをあげよう!」

「室長。ソレ本人には言わないでクダサイね。あの方とてもすごく怒りマスから。そして飴は結構デス」

「え? 期間限定よもぎもち味やで? やのぅて、アレやろ? いい人に思われたらどうするんだ! ってやつやろ? ホンマ、イメージ商売は大変やんなぁ」

 昴を抜きにして、キメラ特別対策室の事務所は元の空気を取り戻していく。

 まだ掃除終わってなかったんデスか? もう終わるって、あと最後の仕上げや。

 すぐそばで行き交う会話が、遠く離れた世界でのやり取りに聞こえる。狭い事務所内、空間には三人もいるはずなのに、この場から自分の存在が切り取られたかのような軽い孤独感を自覚する。そして、そんな自分にまた少し驚く。なんだ、俺ってここに馴染もうとしてたんだな……。

 ベレルは受信用のグラムノートを手に取って開く。朝一で来ている記事を確認し、本を閉じると同時に突っ立ったままの新人へ話を振った。

 

「明後日デスが、」

 途端に、うつむいていた昴の顔がハッと前を向く。今ようやく意識が目を覚ました、と言わんばかりの目を開いた顔に小さく口元を歪めて、ベレルは続ける。

「朝の六時。魔王城前に集合デス。その後、打ち合わせも兼ねてヴィランズの朝礼に参加しマス」

 明後日、昴が入社してから六日目のその日が、魔王との対面日だった。

「了解、です……」

 もう異論を唱えているわけにはいかなかった。仕事の日程、内容、魔王との任務契約も終わってしまっている。なぜ、を考える時間は期限を迎え、これからをどうするかについて考えなければならない。

 不安と心配と、他大きく心を占めるのは、魔王に会えるという今更な実感だった。恐怖の中にかすかな期待を抱く自分の心臓に蓋をして、昴は手に力を籠める。

 

「では、本日の実践訓練、よろしくお願いします!」

 

 

     ***

 

 

「おはようなのだ! ヴィランズ、朝の報告会を……」

「おい誰だ! 俺のTシャツまとめて盗んだヤツ、今すぐ返しに来い!」

「あんたねぇ、朝礼第一声がソレってどうなのよ」

「だってありえねぇだろ! 干してたはずの『ほっちきす』と『まぐかっぷ』と『だいえっと』と『さーろいん』が全部一気に消えるって、おかしいだろ! 誰かが持って行ったに違いねぇ…!」

「持って行ってどーすんのよ。正直あのTシャツ盗んでも着ないわよ。ダサいし」

「ダサくねぇ! メッセージ性がハイセンスだろうが!」

「『さーろいん』に肉の部位以上のどんな意味があるっていうのよ」

「アランもツナミも一旦黙るのだ!」

 

 ……なんなんだ、これは。

 

 ここは、魔王城。

 「よかったらどうぞ」と出されたモーニングセットに、手を出していいのか迷いながら、昴は数分前を思い出す。

 入社六日目。朝、気付け薬と化したスーツのジャケットで背筋を伸ばし、昴は魔王城の大門がゆっくりと開いていく姿を茫然と見上げていた。

 ギギギギ、ときしむ音。圧倒的な存在感。ただただ息を飲むしかない。開閉による風圧ですら、重圧としてのしかかる。この扉が魔王の就任と同時に作り直されたのは有名な話だ。もう百年も昔のことだが。

 あの魔王の拠点。そう意識すればするほど、周囲を取り巻く空気に押しつぶされていく。

 

 ……と、思っていたのは何だったのか。

 

 拍子抜けするほどすんなりと通された城の中。

 入り口からまっすぐ通り抜けた先の大部屋。

 慣れた調子で席に案内されたかと思えば、さも当たり前かのように朝礼が始まった。周囲にはちらほらと組織の職員たちが集まってきている。そして同時に食事も始まっている。ちなみに朝食は、トーストにサラダ。スクランブルエッグに付属したベーコンはカリカリになるまで焼いてあって、無駄に栄養バランスがいい。

「これこれ、アランん家のご飯めっちゃ美味しいねん。このために早起きしてきてよかったわー」

「それはそれは、どうもありがとうございます」

 給仕人が薄く微笑んで返してる背景に、ごちゃごちゃと騒ぎ立てる三人の姿があった。

 赤い魔女と、フードを被った子どもと、……黒コートの男。部屋の入り口から続くカーペットの行き先、段差を付けた舞台の上で、豪華に飾り付けた金と革の玉座が喧騒の中心で困っている。

 

 というか、あれ魔王だよな? そんで魔女だよな? ついでに言うと今運んできたの魔神のエルフだろ? 

 

「それで、連絡事項はあるのだ?」

「あー、俺今日仕事で出るから、丸一日いないと思え。俺宛の客は基本追い返していいが、用件と連絡先は聞いておくこと。以上」

「えー! 今日アランいないの!? というか、なんであたしに断りもなく外回りの仕事受けてんのよ!」

「なんでツナミの許可がいるんだよ」

「あたしが内勤してんのに、自分だけお外なんてズルいじゃない!」

「ツナミは留守番なのだ。みことはアランと一緒に仕事なのだ」

「なにそれもっとズルい!」

 ぎゃぁぎゃぁとわめく声が、天井高い空間に響いていく。

 このチビ! 露出狂! おい、そんな言葉どこで覚えた。

 なんて畳みかけるように続く会話は、妙な激しさを孕みながらも、どこかありふれたもので。

 何度も言おう。信じられない。

 昴は目を丸くしながらもう一度辺りを見渡す。通された席は入り口付近の末席だったが、その分部屋の全体がよく見えた。

 

 王が座るための椅子がむなしく据えられた大部屋、それが謁見の間だった。美しく研がれた乳白色の壁を、紺の布飾りが豪華に彩る。見上げると、吊り下げられたシャンデリアに赤々としたバラが巻き付いていた。しゅるしゅると生い茂りながら暖色の光を放っている。まるで生物のような異様な灯りに、何故かこの場のだれも注目していない。

 玉座に続く赤いカーペットは床を二等分し、それぞれの敷地内に数台のテーブルが並ぶ。先ほどから数分もたたず、続々とヴィランズの者たちが集まってきていた。舞台上で言い争う三人とは別の、日常会話を交わすざわざわ感には馴染みがあって、学生時代の食堂を思い出す。

「な? 魔王言うたかて、普通やろ?」

「は、はぁ……」

 ドヤッと効果音を付けたかのような室長の顔にちょっとイラッとした。なにか一言でも言い返そうかと思って口を開いて、顔だけ隣に向けて、そこで。

 

 固まる。

 

 テーブルを挟んだ、その向かい側。

 

「フォード、遅くなったな」

 

 黒いコートがバサリと揺れる。

 

「はよ来たんはこっちやしええんやで。Tシャツの犯人は見つかったん?」

「まだ。だいぶ傷んでたから、あと一回着たら捨てようと思ってたんだけど」

 

 十歳の時、そして八年前にも聞いた、世界の終わりを謳う声。記憶と違わぬ淡々とした口調。顔を上げることができない昴の視界で、二本の鎖がじゃらりと金属音を立てる。

「うちもこないだ事務所に置いてたカップ麺勝手に捨てられてもーてなぁ」

「あれは賞味期限過ぎてたからデス。人のせいにしないでくだサイ」

「お前まだカップ麺生活してんのかよ」

 

 はるか遠い世界で見ていた光景が、あの人物が、今、目の前にいる。

 

「それで、そっちの見慣れない顔は?」

 魔王の一言に合わせて、六つの目が一斉にふり返った。

 昴が恐る恐る顔を上げた先、すぅと細まった金の瞳が、無感動な色を乗せて己を見据える。刹那、ぶわりと腕に鳥肌が立つ。ぞくぞくと背筋が凍るような、肌で直に感じる魔力は、おぞましくも懐かしい。

「あぁ、うちんとこの新人やねん。名前は、」

「いや、それは本人に訊こう」

 室長のセリフを遮って、黒のコートが目の前ではためく。試すような視線が、自分の髪先から、まだ汚れのついていない革の靴までをじっくり眺め、そして。

「俺はミラージュ=アラン。組織ヴィランズの頭首だ。初めまして。……と言いたいところだが、どこかで見たことがあるような……。まぁいい、お前、名前は?」

 

 腰に手を当てる所作と同時に、小首をかしげてニィと笑った顔は、あの日あのとき、ラグナロクのスタジアムで見たものと同じで。

「……あっ! え、あっ、」

「なにしてるんデスか。言われてマスよ」

 ベレルが呆れながら横から小突いてくる衝撃で、目が覚める。

「す、すすす昴(すばる)・蔵槌(くらつち)、です。今年の春入社した社員で、……」

 それ以上、言葉が、出てこない。

「昴、ね。了解。それとやっぱりどこかで……」

 軽く曲がった人差し指の背を下唇に当て、ふむ、と嘆息する魔王は、今俺の目の前で動いていて、生きていて、話をしていて。

「あぁ、前のラグナロクだ。お前、前大会見に来てなかった?」

 

 首が、固まる。声を出したいのに、のどを通るのはうまく酸素を取り込めなかった空気だけ。

 

「おお、せやねん! この子な、ラグナロクおたくらしいわ」

 室長がなにかを言っているが、全く耳に入ってこない。正面の「めんま」と書かれたシャツに視線が固定されていた。処理しきれない情報に脳が一度受け入れを拒否し始める。

「ってか、あの大観衆を全員覚えとるんか?」

「まさか。ただ、……初戦勝った後だったか、観客席から妙に熱烈な視線が来るなぁと思って振り返った先に、この灰色の瞳があった、気がする」

「ほぉ~。よぅ覚えとんなぁ」

 そして何秒も遅れて、頭が会話の内容を理解し始める。しかし、理解できても信じることはできない。え、まさか本当に……? あの魔王が、あの大観衆の中でこんなちっぽけな自分を覚えているなんて、あるはずがない。そう冷静に考えたいのに、何とか生きていたらしい耳が、通り抜けようとしていた言葉を引き留め、逡巡する。

 やっと動き始めた脳が、自分そっちのけで行われる会話を再生し、内容をかみ砕いた、その瞬間。

 

「あ、あの、そそそれたぶん俺です! 小さい頃から、いつか絶対にラグナロク見に行きたいと思ってて、この間の大会、もうすごい決勝戦で、見てるだけですごく興奮して、……っ!」

 

 思考回路が、爆発した。

 もう、自分が何を口走っているかも分からない。違う。魔王なんて、嫌ってなければいけないんだ。こんな言い方したら、超ファンみたいじゃないか。あの寒気を忘れたのか? 今にも喉元を噛み切られそうだと思ったあの印象を忘れてしまったのか? いやいや、今すぐにでも思い出せるほどの鮮明な記憶だろう? 今その記憶の中の人物が目の前にだな。

 

「へぇ。そりゃどうも」

「いやなんかもうすごく強くて、誰も勝てないんじゃないかと思ってて、ホントに、ホントにやばいと思ってですね、」

 違うんだ。魔王は、倒されるべき悪であって、それは万人すべてが感じている認識かつ当人も認めてらっしゃる普遍的な事実であってだな……。

 

「……すごいデスね」

「ん? なんのことや?」

 わたわたと手を動かしながら、よく分からないことをごちゃごちゃ並べ立てる昴・蔵槌。その新人を一歩引いた位置から見つめて、ベレルは感心したように息をついた。即座にフォードから反応があるが、その返答には少々言葉が詰まる。

 目の前の光景は、なんと言えばいいのだろう。オブラートに包めるような単語を頭で探し、しかし結局は思ったままを述べた。

「……いや、真面目でしっかり者の新人クンが憧れの人に会うと、バカになる、というコトがたった今判りマシタ」

「……あー、あれ、テンパってるんか?」

「どう見ても混乱の状態異常デスね」

 なんや、結局大ファンやねんな! まぶしそうに目を細めて、フォードは快活に笑う。かちゃかちゃと食器を重ねる司に礼を述べて、時計の秒針に呼吸を合わせた。

 出発の時刻はもう間もなく。

 

「せやけど、残酷な時間が始まってまうなぁ」

「甘やかしてはいけまセンよ」

 

 キメラ特別対策室の室長、フォード・T・セダン。

 そして社内屈指の問題児、ベレル=CVT。

 二人は、これから長くなるであろう一日を予感して、唇をきつく引き締めた。

 

 

 

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