Y.WA.11

 おいおいおい、まさかまだそんな火力出んのかよ……。

 

 アランは、追いかけてくる炎の鞭から逃げ回りつつ、内心で呆れたように漏らした。

 飛んだり跳ねたりしながらも広間の中心へ目を向けると、必ずツナミと目が合う。

「絶対に許さないんだから…!」

 怖えなヲイ。

 

 今やツナミは完全に殺す気だ。熱を持った蔓が直接的にアランを狙ってくる。一方で、足元にはぞわぞわとバラの花が咲き、空間の侵食を続けていた。最初の頃よりは大人しい咲き方だが、一つ一つが大きく荒れ狂い、それでも着実に数を増やしている。第一幕の高ぶった魔力と合わせても恐ろしいほどの魔力消費量。それでも力尽きる様子などなかった。

 おそらく、これがこいつの真骨頂。膨大な魔力量と舞を続けられる体力が一番の武器。時間が経てば経つほどに、威力は増し一度攻撃されてからのリカバリーも利くようになる。大器晩成型の手法だった。

 

 そうなると、長引く前に叩くのがやっぱり一番いいんだけどな……。


 先ほど司が無慈悲にやらかした対応が、なんだかんだ言って一番合理的、という結論に落ち着く。

 だが、それでは何も変わらない。力で圧倒し、魔法も言葉も抑えつけるのは可能だが、感情はそうもいかない。またあの暴走状態が続くことは大いに考えられた。

 

 鎮火すれば解決、と簡単に片付けばよかったんだが……。

 

 アランは内心で苦言を呈す。ちなみに司は独り、二階の渡り廊下から手を振っていた。手伝う気は全くないらしい。

 ステンドグラスから見えていた月は、時間の経過に沿ってフェードアウトしていった。城内には再びバラが咲き乱れ、落ち着いた明るさを取り戻す。同時に、隙間から覗く闇が雑音を食っていく。

 足元に打ち付けられた衝撃を爆風で感じて、アランはふと思い出す。

 こんなに熱く騒がしい夜は、一年前以来だった。食パンにはバターかマーガリンかでヒートアップし、最終的にその場にいた全員を巻き込んでの大喧嘩となった。


『カラスちゃん分かってないなぁ! マーガリンの方が実は風味やコクが軽く仕上がって、香りがいいんだよ?』

『分かってねぇのはそっちだろうが! 乳脂肪分八十パーセント以上の証、あの濃厚な旨みをなめるな!』


 ……なに、やってたんだろう。

 

 思い出すたびに空しく思えてならない。だがあの日、この大理石の空間は確かに踊っていた。

「……女にかかわると本当にロクなことがねぇな」

 頭上を横殴りにかすめていった蔓をかわし、アランは聞こえるか聞こえないかの小声でぽつりと呟く。脚を狙った枝が刺さる前に空いたスペースへ飛び出した。

「避けるな魔王!」

「避けるわ! そんなもん食らったら火傷で済まねぇだろ!」

 近くを通るだけでも熱風を感じる炎の塊だ。火傷の痛みは後に引く。可能な限り無傷を続けるが望ましい。胴目がけて突っ込んできた蔓の先端を、矛ではじく。ゴウ、とおよそ植物とは思えない音を立てて鞭がしなった。

「熱っ!」

「ちょこまかと小賢しいわね…!」

 一様に当らないバラの鞭にしびれを切らし、ツナミが腕を大きく振り上げる。

 

 ざわざわざわ。

 今日見た中で最大の、見る者を圧倒する巨大なバラが一輪。

 まるで砲台のような、危ない香りを放って狂い咲く。

 雄々しく広がるガクに、はみ出る紅玉のつぼみがむくむくと膨らんでいった。

 エネルギーという名の砲弾が集まっていく。

 

 アランは一瞬で形成された大技に少々目を見開き、しかし冷静な口ぶりで続ける。

「ヒステリックは嫌われんぞー」

 口元をメガホンのようにして手のひらで覆い、気だるげなもう片腕がのっそりと腰を支えた。漆黒のコートは重力に従って垂れ下がり、いわしTシャツは押さえつけられ皺をつくる。淡々とした知見を示す表情。色の見えない魔王の瞳。鋭く見透かすような視線は、むせ返るバラの色香に一筋の切れ目を入れる。

 

「何とでも言いなさい」

 対してツナミの返答は、思ったよりも理性的だった。

 力のこもった語調はそのままに、ピンと伸ばした指先が魔王を貫き、緑色のもう片腕がしっかりと肘を支える。四肢を覆うストールが慣性に従ってふわりと舞い上がり、張り裂けそうな胸部は下着に抑えつけられ窮屈そうに揺れる。余裕を崩さない微笑を浮かべた表情。喜色に染まった魔女の瞳。嘲笑うアランの提言を呑み込んで、透き通るような彼女の声が響く。

 

「あたしがどれだけあの人が好きだったか、あの人のことを想ってるか。いなくなったからハイ次、って乗り換えられるほど、感情は単純なものじゃない」

 

 ざわざわざわ。

 つぼみが、花開く。

 

 魔力という養分をため込んだ巨大なバラが、ゆっくりと首をもたげる。

 指を突きつけた怒りの矛先。

 光が、飛ぶ。照準は、もちろん。

「古今東西、勝てば官軍! レベルを上げて物理で殴る! 勝って証明してあげるわ!」

 ミラージュ=アランの眼前に、妖艶な香りを放つ赤い閃光が、迫る。


 

「……あの人も、もう少しわかりやすく仕事を残してくれたらよかったんですよ」

 

 独りぼっちの二階からぽつりと呟いたのは、司だった。

 時刻は少々さかのぼる。見下ろした先ではアランが赤い蔓から逃げ回っているのが見える。アランの動きは鋭いが、最小限でしかない。ほらまた、間一髪の回避が続く。

 さっさとどうにかすればいいのに、と思いながらも、一通り見せ場を持たせてやるのが魔王様の優しさだった。間違って怪我でもしたら笑ってあげましょう。司は少なくとも、アランの心配は一切していなかった。

 むしろ気にするべきは、階下の喧騒ではなく。

 

「……コレ、そんな意味があったんですね」

 

 司は片手に持った古い書物をパラパラとめくる。誰かに宛てたものではない独り言だったが、あえて問えば、答えは「今は亡き英雄様」宛てだろう。ページ半ばで記述が終わったその本の、末尾の文章。本来は神託以外のことは書けないはずの預言書に、不自然に記された妙に丸い文字。

 

『じゃぁ、ヲじさんの赤い薔薇の世話もよろしくね。せっかく綺麗なんだから、たくさんの人に見てもらわないと』

 あのヲリヴィヱ・ヨトゥンヘイムが最後の最後に書き残した、謎の文章。

 

 一年前にこのメッセージを見つけたときは「園芸趣味もないくせに……」と残された二人は割と真剣に悩んだ。しかし今、ここまでくれば、流石に『赤い薔薇』が何を示すかなんて分かっている。

 

「ちゃんと、ツナミさんの気持ちも、砂縛も、何もかも知ったうえで、それらを利用して僕らに後始末を頼んだ、と。そういうことですよね?」

 もちろんのことながら、返事はない。細まった司の視線が落ちる先では、キャピキャピ系女子のような筆跡が踊っている。見覚えのある、自称ヲじさんの文字。

 

「まったく、分かりづらい愛情表現は、僕だけでいいんです」

 パタン、と埃っぽい乾いた空気の塊が頬に当たる。革製のハードカバーで仰々しく飾られた預言書。古ぼけた過去の遺産をぞんざいに腕で抱え、司は城を見渡した。

 

 巨大な赤の魔法が目に入る。間違いなく大技と呼べるような、膨大な魔力を一瞬で生成する能力は確かなものだろう。アレが直撃したら少々大変ですねぇ、なんて気楽に空へ投げて、冷たい目を隠すよう笑みを作る。

 

「アランさんなら大丈夫ですよ。だってあの人は、」

 司が見守る中、静かに脚を止めたアランが目を細めてバラを正面に見据える。

 司はくふくふと笑った。

「世界のため、自分のため、そして僕のための、魔王様なんですから」

 

 昏い色を灯す魔王の瞳。奥の方でふつふつと煮えるは、実に楽しげな昂揚感。ほらやっぱり、心配などするだけ無意味。

 司が目を細めてモノクルの位置を直すと同時に、妖艶な香りを放つ赤い閃光が、きらきらと美しい咆哮を上げた。


 黄色。橙。赤色。鮮やかに染まる城内。立ちはだかる黒コートの男。その目の前で、バラの花はひしめく花弁を押しのけて朱く輝く魔道砲を放つ。

 爆風。熱風。衝撃。はじけ飛んだ朱色の火花がツナミを飾る。命ある限り燃え続ける、耽美で儚い恋の華。

 

 シュルリ、と音を立てて緑の腕に蔓が巻く。大人びた雰囲気に、ツナミの身体から咲く薔薇もまた、深い闇色の赤を示していた。

「……女の子はいつだって、愛のためにすべてを捨てられるわ。人も自分も世界すらも犠牲にして、それでも恋をする。乙女の力、思い知りなさい」

 

 静かに告げる周囲で、ジリジリと炎上の音が聞こえる。

 煙が上がった。

 ツナミは炎を好むが、伴う黒煙と煤は好きではない。匂いが悪く、美しくない。そして何より、視界が妨げられるのが嫌だった。自分から周りが見えないということは、周りから己の姿が見えていないということ。この美しいあたしの姿が見えないですって? 仕方がないとはいえ、不満が残る。

 

 ツナミは、強い。

 生まれながらに持った魔力の量は、育ての親が戸惑うほどだった。放り込まれた学舎で魔法学のトップに立ち、情報屋でありながら誰にも負けなかった。周囲に漏れ出す魔力にバラという形を与え、舞と派手な色使いで空間を染める。苛烈で強烈な赤色は、まさにすべてを燃やし尽くす劫火となる。

 それらツナミの能力を見抜き、認めてくれたのがヲリヴィヱだった。そして英雄に褒められるために、ツナミは組織と関わり続けた。

 関わり、戦い、恋をした。

 魔女、と呼ばれ始めたのはその頃だ。高飛車な性格と誇り高い自信は、周囲には異常にも感じられたのだろう。それでよかった。ヲリヴィヱさえ喜んでくれれば、ツナミはそれでよかった。しかし、もうその英雄もいない。

 

 ヲじさま、どうしよう。本当はすぐにでもあなたを追いかけたいのに、湧き上がる力は、まだ勝とうとしている。まだ生きようとしている。

 あたしは、強い。ツナミは悲しそうに、しかし確信してそう思う。

 

 強大な一撃を放って、巨大な赤いバラはしおれると同時にゆっくり魔力に戻っていった。小さな光に分解されて空気中に解き放たれる。煙に紛れて虚空へと還る。

 

 さぞかし城は悲惨な姿となっているだろう。熱と光の魔導弾には莫大なエネルギーを詰めた。そしてその威力は一点に集中して対象をマグマに変える。

 たとえ黒の男が避けたとしても追従性能は備えてあったし、そもそも回避しようとする動きは直前でも見られなかった。

 被弾したはずだ。そして、ただで済むはずがない。いくら魔王と言えど、食らっておいて無傷で済むとは思えなかった。

 たしかな手ごたえに、煙が落ち着くのを待つ。

 しかし、直後、


「まったく、城がこれ以上潰れたらどうしてくれるんだ?」


 聞こえるはずがない、落ち着いた口調のからかい文句。

 じゃらり、と鎖が滴る音がする。

 ぶわり、ツナミの緑色の腕に鳥肌が立つ。

 不審に思いながら、左腕を抑える。だが、その右腕もまた、震えている。

 なに? どうしたの? 自分の体のはずなのに、意識よりも感覚が何かを訴えていて、自分はそれの正体を分かっていない。

 

「自信に満ちた女は美しい、とは言うけれど」

 

 ぞわぞわぞわ。大気が、戦慄く。

 

「だからって、人のTシャツを燃やしていい理由にはならねぇよなぁ」

 

 冷たいというよりも、生きている感覚が消えたような空気が、慄いている。

 目を凝らして正面をよく見た、その一瞬。

 視界を黒が覆った。しかしすぐさま、闇の霧は何事もなかったかのように晴れる。瞬きのような、否、瞬きだと思い込んだ刹那のことだった。相手の一挙一動に注目しているこんな時でなければ、おそらく気にすることもなかっただろう。

 今、目の前で、何かが起こった。その事実だけ気にして、ツナミは正面を睨み付ける。一人分の人影が見える。

 

 人影が、見える。

 ただ、それだけだった。

 周囲には何も無かった。

 ……本当に、何も無かった。

 周りを漂っていた煙も、燃えた調度品も、割れたステンドグラスの欠片も、シャンデリアの成れの果ても、大広間の隅々にあったガレキも、入ってきたときにぶち壊した玄関の大扉も、床に咲いていたバラも。

 なにもかもが無くなっていた

 

「あー、すっきりした」

 

 一瞬で、すべてが消えていた。

 目の前に在るのは「背景」と呼んでいたもの。城に入ってきた時と同じ、月明かりを反射する大理石の床。ところどころがひび割れた石造りの壁。司の笑みが見える吹き抜け式の渡り廊下。その光景の中央で、一人の男が立つ。

 

 金色の目。片足重心で飄々と立つ男。黒色のコートを両手でつかんで、一度バサリと埃を落とす。

 なぜかTシャツは無くなっていた。先ほどと違う姿に警戒する視線を感じてか、魔王は腹を撫で上げて「燃えたんだよ」とからかうような、軽い恨み節で告げる。そして、もう一度コートにそでを通した。素肌にコート、うっすい胸板が強調される。

 

「……なにをしたの?」

 問い詰めるように、それでいて糾弾するように、ツナミは睨んだ。信じられないという否定の目が、キツく吊り上がる。

 握りしめた緑色の手が、密度の低さを感じ取った。喚いていた空気が、軽い。

 あれだけの魔法。閉鎖された空間。大気中に昇華された魔力の気配はこの場所で感じられて当然のものなのに、もうすでに感知できない。彼女が育てたはずの、彼女の魔力にも関わらず、この城から吹き飛ばされたかのように希薄でおぼろげだった。

「なにを、したの?」

 二度目のセリフ。はっきりと強い色をしていた。

 

 司にバラを消されたときは、こんな不可解な感覚はなかった。なぜなら、現象も結果も分かりやすいものだったからだ。炎と水、その力勝負で負けた。力で押し込まれた。分かりやすい事実だった。

 だが、今のこれは違う。この男が、何かをした。それは分かるのに、何が起こったのか理解できない。こんな現象、あたしは知らない…! 

 

「何って、無くなっただけだろ」

 アランの口調は軽い。左手に持った矛の長柄がシュンと収束し、元の腕輪に戻った。魔王の華奢な両手の関節でふわんと揺れる。

「ふざけないで。魔法のダメージがないのはまだ分かるわ。防御、相殺、上書き、実行可能かはともかく、方法はないわけじゃない」

「待て、シャツ燃えたっつってんだろうが。ばっちりダメージ通ってんだろうが」

「でも、ほかのガレキまでもが一瞬で消えるなんて、あり得ない。見えなくなったのではなく、これは、完全に、存在の消滅」

「無視かよ」

 えー……、とアランは鬱蒼とした目でため息をついて、ぼろり、口からこぼす。

 

「見たまんまだよ。あんなに威力の高いもんを、こんなところでぶっ放されたら城が保たねぇだろうが。だから、魔法の存在を消した。ゴミは、まぁ、ついでだから一緒に消した。あ、お前が魔法を放ったって事実は消えてないけどな」

 

「待ちなさい。消したって、そんな簡単に……」

 ――ぞくり。

「……!」

 強気に開いたツナミの口が、押さえつけられるように閉じる。

 肌を刺す異様な空気。存在しない心臓をわしづかみにされるような感覚。じくじくと疼く両の腕に、しんしんと沁みていく。

 

 どろどろとおぞましく漏れるのは、毒々しい魔力だった。どこから? 決まっている。目の前、魔王ミラージュ=アランが、静かにこちらを見つめている。

 制止の言葉が聞こえたわけではない。だが、何よりもその雰囲気が、言の葉を禁じていた。


「そんなことがあっさりと出来るから、俺は《魔王》になるんだよ」


 金の目が、ニィと歪に三日月を描く。あぁ、この顔が、この表情が、魔王が魔王たる理由なんだろう。そう、自然に思わせる程の、狂気の笑み。

 そうしてゆっくりと口を開く。


「満足いくまで、咲き誇るがいい」


 俺はそれを否定はしない。何度でも咲くがいい。その度に消し続けてやる。満足するまで。納得するまで。お前の心が、魂が、枯れ果てるまで。

「その後にどうするのかは、自分で決めろ」

 俺が与えてやるのは、選択肢だけだ。

「お前の望みは何だ? 恋のために死ぬことか?」

 それとも、

「恋のために、生きることか?」


 ……………

 ………

 ミラージュ=アランの、恋を馬鹿にする態度が許せなかった。

 捨てたいと願うのに、守りたいとも思ってしまう。花人にとっての感情は、そういうものだった。砂縛に縛られて生きるのは滑稽だと、解っているのに分からない。

「あたしが、どうしたいのか……」

 ツナミの目が、揺らぐ。

 これからどうしたいか、とか、考えたことがなかった。明確に「したいこと」なんて、突然すぎて思いつかなかった。

 あたしは、一年前のあの日のままだ。

「生きたい理由が、もうないのよ」

 シン、と空気が沈む。ツナミは静かに、目を伏せた。

 

 アランは、遺言通りにヲリヴィヱの願いを叶えてやる気などなかった。薔薇の世話を頼む、なんて、唐突で無責任にもほどがある。後から言い出してなんでもホイホイ言うこと聞くと思ったら大間違いだ。第一、死にたいと本気で思ってる奴を叱咤して生かすほどアランは優しくはないし、殺してと言われて「ハイ分かりました」と従うのも癪に障る。

 生きたい奴は生きればいい。死にたいならば死ねばいい。ただ、生きたいとも思わずに生きてる奴が、この世で一番死ねばいい。

 

 呆れたような声を出して、アランは挑発の言葉をかける。

「自分のことは自分で決めな。ほかの誰かに任せるのは簡単だが、お前はそれでいいのか?」

 追い打ちをかけるようなセリフに、ツナミがゆっくりと顔を上げた。その目は、諦めたようなほの暗さの中に、生への執着という煌々とした光を備える。

 震える声を落ち着けるように、問う。

 

「……答えて頂戴」

「おう」

 泣きそうな振動を湛えていた。

「あんたは、なんらかの力を使って、存在そのものを消すことができる」

「あぁ」

「あたしが何度暴走しても、満足するまで、すべてを消し去ってくれる」

「あぁ」

 ツナミは一度開いた口を閉じる。そして意を決意したように、もう一つ、と言葉を紡いだ。

 

「……あの人は、ヲリヴィヱ様は、最期の瞬間でも、ちゃんと笑ってた?」

 

 懇願するような響きだった。

 アランは、その返事をするべきかに迷う。しかし、淡々と口を開いた。

「あぁ。この上なく幸せそうに、残された世界に期待して、……」

 

『もう満足だよ。なにも思い残すことはない。あーあ! ボクは最っ高に幸運だった! ……嘘だけど』

 そう言って、笑いながら。

「死んでいった、のね」

 ツナミの口調は落ち着いていた。ひとつ息をつく。自分の心にあるままに、感情のままにここまで来たけれど、

「なんだか、すっきりしちゃった」

 憑き物が落ちたような、穏やかな顔をして、ツナミは泣きそうに笑った。

 

「あたしは、あの人をあきらめても、いい」

「……あぁ。好きにしな」

「そうね。あたしの人生だもの。好きにすればいいのよ。……指標がなくなった途端、道が分からなくなるなんて、とんだ笑い種だわ」

「いや、笑い種で殺されかけたとか笑えないんだが」

 紅い髪を振り回して、ツナミは城を見渡す。

 白んだ空に照らされ始めた魔王城は、外観は崩れているものの、荘厳さを失ってはいない。あの人が居続けた、最後の居場所。

 

「……ずっと、ずっと好きだったの」

 ツナミは、ステンドグラスに向けて、ぽつりぽつりと語る。

「全部なくなって、あたしに残ってたのは恋心だけだった。でも、……そうね、残ったものに縋ってるあたしは、美しくないわ」

「…………」

「……初恋は実らない。女の子はそうやって強くなる」

 自分に向けて言い聞かすような含みがあった。それでも、ツナミの目は穏やかなもので、周囲にこぼれる魔力も落ち着いている。揺らした髪に巻き付く薔薇の蔓が、しゅるりと音を立てて花のつぼみをつけた。

「決めたわ」

 ツナミの薔薇が、花開く。

 

 そうだ、あたしは、強い。自信にあふれた、勝ち気で余裕を持った相貌が朝日に照らされる。ゆっくりと振り返って、まっすぐにアランを見つめた。

 黙って佇んでいたアランの正面にて、降りてきた司にも聞こえるように、ツナミは伝える。はっきりと、嬉しそうに、楽しそうに、まっすぐ伝える。

「そこまで言われたら、しょうがないわね」

 緑色の指が、鮮やかな紅色の爪が、ツナミの頬を撫で、前髪を書き上げる。艶やかな仕草に、健康的な錆浅葱色の瞳。腰と胸を強調するように、姿勢を正す。己の魅力を完全に知り尽くした、麗しい薔薇の花人。


「そんなプロポーズ、初めてだもの。あたしのためにすべてを捨てられる、なんて、熱烈すぎて火傷しそう」


「……は?」

 空回りしたようなアランの一言が、虚空に消える。

 ツナミは、今日で一番美しい笑顔を作った。

 そして告げる。

 外見よりも、舞よりも、周囲を魅了する、蠱惑的で盲目的な、愛の言葉を。


「愛してあげるわミラージュ=アラン! 喜びなさい! このあたしが惚れたからには、最高で最強で最悪の魔王にしてあげる!」




Column

【ミラージュ=アラン】

ガーディアンの生き残りにして、新時代の魔王。明日の予定は城の掃除、の続き。

 

イラスト:来さん @R2root

【ツナミ】

魔女、と呼ばれたバラの花人。機嫌よくしゃべってるときは周囲にバラの花が見える、気がする。

 

イラスト:来さん@R2root

【司】

おっとりとした敬語系エルフ。アランの仲間、および部下にあたる。

 

イラスト:来さん@R2root

【バター】

その起源は紀元前2000年頃。最初は医薬品や化粧品として用いられ、食用としての利用は紀元前60年頃からといわれている。

 

【マーガリン】

 コーン油、大豆油、パーム油、なたね油、綿実油などを使用。これらに水素を添加し、液状のものを固体状に硬化させ、乳成分やビタミンA、乳化剤などを添加し、混ぜ合わせてつくられる。

【預言書】

英雄にのみ書くことを許された“神”からの言葉。閲覧は誰でもできる。聖なる力を失わないために本を閉じることは禁忌だった。

【いわしTシャツ】

アランお気に入りの文字Tシャツの一つ。白地に黒文字、書体は手書きっぽいところが気に入っている。