避けろ!
えらく切羽詰まったアランの声を、決算期や月末処理業務以外で、ツナミはおそらく初めて聞いた。
……そんな他人事の話で済めばよかったのだけど。
頭上に影を作る巨大な斧。
明確な「死」のイメージを与えるそれは、地面にぶつかると同時に身を浮かすほどの衝撃波を生む。
身を守る蔓とバラ。飛んできた破片が赤の花弁を一枚二枚と散らしていく。
「もう! 一体なに!?」
「来たか…!」
本日二度目のセリフ。大門を正面に据えるアランの視線はただ一点に集中していた。
立ち上る土煙。
ゴトン、と音を立てて鈍い銀色が蠢く。
その柄の先で、魔王を睨む一人の人物こそが。
「勇者を殺すことはおろか勝つこともできず、そのうえ城から取り逃がすような、愚かで情けなく脆弱で誇りなき魔王なら、この世界には必要なくってよ!」
曰く、『歩く災厄』
曰く、『ドレスを着た理不尽』
曰く、『無銭飲食の女王』
「我が愚弟ミラージュ=アラン! 今一度運命を顧み、嘆き、狂い、怒り、喚き、死んで悔い改めるがいい!」
そして、『最凶最悪にして最高の姉』
「姉貴……」
名をミネルヴァ。
手首から肘を覆う手甲と、胴体を包む鎧。その下に絹流れるドレスを身にまとい、女は長い柄のついた斧――ハルバードを突きつける。
鋭く紅く、重く冷たい視線がアランを射抜く。
「たまに連絡してきたと思ったら……」
しかし弟の目は鬱蒼とゆがむだけだった。驚きはなかった。来ることはわかっていた。
ホワイトボードにあった「来客」の正体。
めったにない人物のめったにない連絡。日付のみを送ってきた端的なソレが、非常に残念なことに優先順位最上案件に浮上するのも、毎度のこと。
……いつ来るのかと思っていたら、何もこのタイミングで。
アランは一度片付けた矛をもう一度取り出し、静かに構える。相対する斧槍を見止めて、翡翠色の矛がずくりと戦慄く。
「姉貴、今日はいったい何の……」
しかし問いかけは意味を成さない。
「やかましい。お前の疑問など、一切求めておらぬわ」
ミネルヴァの表情はピクリとも変わらなかった。切り捨てられたセリフが虚空に消える。意思の読み取れない氷の視線が、武器の先に殺意だけをまとってアランを見据える。
「…………」
やはり、話し合いで何とかできる相手じゃない。
なぜ? なんのために? 目的は? ミネルヴァの行動に意味を見出すことは、もうあきらめろ。
分かっていたように目を伏せて、魔王は小さく息をついた。油断も隙も作らない一呼吸。幾度となく飲み込んできた感情論。怒りやら呆れやらが飛んでいく。冷静さを欠いた瞬間が終わりだった。
アランの正面で、澄ました横顔が口開く。淡いルージュを乗せた唇が、覇気をまとって宣言する。
「お前もわたくしも戦うために創られた。戦闘兵器が二人そろったとき、そこに戦う理由など存在しない!」
すべてを飲み込むザクロ色の瞳。黒衣を見止めて、爛々と光を放つ。
「さぁ愚弟よ刃をとれ! 今ここで大人しくわたくしに殺されるがよくってよ!」
切っ先による指名に、アランは無言で応えた。矛を水平に構え、静かに相対する。表情から色が消える。
「……ツナミ、司、後ろは任せた」
がしゃん、とミネルヴァの鎧が重厚な軋みを響かせた。
じゃらり、と二本の鎖が首から滴り揺れる。
やらなければ、やられる。
「やっぱりこうなんのかよ……」
最後に一つ忌々しげにつぶやいて、アランは跳ねるように駆け出した。
待ち構える奴が望むは、ただ一つ。
戦え。
手始めに正面から一撃。矛を振りかぶりフェイントをかけ、無い胸を隠す懐に入……ろうとして飛び出してきた斧の先端をよける。
遠慮なく腹を狙ってきた攻撃に、容赦や手加減などはもちろんなく。
「……っく!」
ヒットアンドアウェイ。すぐさま距離をとる。
……姉というものは特に何の理由もなく弟を殺しに来るものだと、アランはこれまで何ら疑問に思うことなく受け入れてきた。
「あいっかわらずの怪力…!」
物心ついたときには自分の前に立ちはだかっていた姉、ミネルヴァ。
家を出るきっかけも旅に出るきっかけもこの女による部分が大きかったが、そのほとんどが“姉を追いかけつつ姉に殺されないようにする”ためのもの。
真横から殴るように振り回されたハルバードを、柄で防いで受け流す。が、食らった段階でまずかった。そのまま力に押し流され、アランの体は壁めがけて吹き飛ばされる。
受け身をとった背中への衝撃。即座に足を蹴り出す。
「婚期逃すぞ……。いや、今更か」
口からついて出る皮肉に制限はかけない。
長いようで短かったアランの生存期間。姉とは、そう頻繁に出会うわけではなかった。
だが、会う時の状況はいつも同じ。
いきなり、唐突に、人生の要所要所に現れる、魔王にとっての災厄。
『世界のため、お前のため、わたくしのために、死ぬがいい!』と言い放ってはひたすらに弟の首を狙ってくる。それが、コードネーム《テンペスト》。テンペスト=ミネルヴァという女だった。
アランの黒いブーツに埋め込まれたオレンジ色の宝玉が、ぼんやりと光を放つ。
やられたら。
「やり返す!」
アランは地を駆ける。瞬きですら生死を分ける。ミネルヴァの細く身を包む鎧めがけて、突き刺すような黒の蹴りが入った、……かのように見えた。
「愚か者」
ミネルヴァは余裕の表情を崩さない。見下した艶やかなザクロ色の目が、静かにアランを見据える。
「攻撃が単調で甘い。そんなことで魔王を名乗っていて?」
アランの足先を受け止めるように、利き腕ではない女の片手が胴を守っていた。そのまま腕を振り払うと、黒衣の体が床に叩き付けられる。
「ちっ……」
だがアランもまた強気の目を譲らない。地面に倒れるはずだった肉体を前傾姿勢で受け止め、矛の切っ先を突き付けて集中する。
距離をとる。
ぴしり、と引き締まる空気。
お互いがありとあらゆる攻撃手段を想定し、対策を打ち立て沈黙の時を守る。
「…………」
「……」
殺気にまみれたこのやり取りも、もう何回目だろうか。
……毎回こんな殺し合いをしているのか。
毎回している。
……死んだりはしないのか。
毎回死にかけている。
……そろそろ慣れてきたりしないのか。
慣れたら、終わりだ。
アランは数日前を思い出す。
差出人に「姉」とだけ書かれたグラムノートの一ページ。あの神経質な文字を発見したときの、身が凍るような感覚はどうにも筆舌しがたい。不治の病で余命を言い渡された患者の気持ちはこんなものなのだろうか。日付のみを記載した乱雑な文字は、まさに死刑宣告にして処刑日通告。アランは一瞬にして財産分与の管理を考えた。
瞼裏に張り付く、過去の記憶。
なんといってもミネルヴァには前科がある。斧槍の先端がアランの腹を貫通して死にかけること数回。折れた肋骨が肺に刺さって倒れること数回。地面に叩きつけられ腰を打って動けなくなること数回。飛んできた斧が首をかすって大怪我になること数回。
何度でも言おう。毎回死にかけている。
一瞬で傷が治る便利な魔法なんてものはない。患部だけ超回復する都合のいい薬も存在しない。もしおあつらえ向きに怪我だけを治す手段があればそれは、……まさに【神】の御業。
アランがこれまで助かってきたのは、ひとえに本人が死ぬ前に死ぬ気で治してきたからに他ならなかった。
今度こそ、死ぬ。ミネルヴァと対峙するたび、アランはそう思っている。
とはいっても、今回は直前でも連絡がきた段階で幾分かましな話だった。そりゃ来ると分かった時点で「あ、死んだ」と思うわけだが、それでも事前に来ることがわかっているのならいくらでも準備ができる。特に心の。ある程度の心づもりが出来たらもうそれで十分だった。
なんといっても普段はアポなし、連絡なし、こちらの都合関係なし。まさに『歩く災厄』。
突然降って湧いたと思ったら、ミネルヴァは特に理由もなく弟を殺しに来る。決算時期の忙しいときにやってこられた時には、あのドレスの裾を見ただけで目の前が真っ暗になる。
……その割には落ち着いているな。
当たり前だ。パニックになった瞬間から死亡率が上がる。
そして何よりも。
アランは静かに大きく息を吸う。眼に力を入れて、体から力を抜く。集中を切らすな。自分に向けて言い聞かせる。
そして何よりも、まだ、死にたくない。
「抵抗をやめてもよいなどと誰が言った? 死する前に力を示せ! 示せるほどの力もなければ死ね!」
一番厄介なことに、姉は、残念ながら強かった。
距離をとって振るったハルバードの衝撃が、アランの足を地面に押さえつける。体が重い。まるで自分一人に重力が数倍かかっているような、そんな気さえする。
だがそれを走れない言い訳にはできない。脚はまだ動く。長距離の攻撃手段を持たない男にとって、動けなくなることは敗北に直結する。
カラン、と音を立てて矛は地面に吸い込まれた。武器は邪魔だ。振るう一瞬の間がもったいない。
身のこなしならばアランの方が上だった。腕をサポートにして蹴拳を極めた黒の影は、無数の駆け引きの末に何度か足をヒットさせる。
しかし、それでも姉には効かない。
これが問題だった。
勢いとパワーと破壊力を込めたはずの踵の一撃は、ミネルヴァにぶつかる直前でその威力を失う。
もちろんのことだが、手加減をしているわけではない。まさかとは思うが、情けをかけているわけでもない。というか、「姉には攻撃できない」などと言った瞬間に殺される気がする。そんな気がする。
「ふん、体はなまってないようね」
やはり今回もミネルヴァはアランの一撃を軽く受け止めた。絹布がふわりと揺らめき、衝撃を追い返すように弾いて斧を振りかぶる。
アランもなんなく着地し、距離をとって避けようとして、気づいた。
……近い。
見上げた先にはレースが施されたドレス。頭上に影を作る巨大な斧。ステンドグラスの鮮やかな灯りが、重苦しい金属に鮮やかに乗る。幾度となくアランを襲ってきた鈍色の殺気は、鋭利で険しく、重く強くたくましく、厳しく現実的で、明確なイメージをもたらす。
それすなわち、死。
「……っ!」
あ、まずい。
避けろ。
避けなきゃ死ぬ。
アランはすんでのところで体をひねり、後ろに下がった。
ガシャアアアン。
振り下ろされた分厚い刃先は腹部をかすって石の床を壊し、けたたましい轟音とガレキのつぶてがコートの上からアランを襲う。
……ほんっとにためらいないな!
主に城の修理費的な意味で。
苦々しく眉間にしわを寄せてアランは立ち上がる。距離をとった大広間の端で土ぼこりを払う。警戒は解かない。危なかった。躱さなければまた腹に穴が開いていた。
「ちっ……」
姉の強さには、感情がない。
アランが知る限りの勇者、魔王城の配下たちの多くは、力に感情を乗せる。それはなにも、ツナミのような花人に限ったことではない。
恨み、憎しみ、責任感、楽しさへの追及。感情と意志を込めた力は時に想定以上の威力を生み、慢心、否定、あきらめ、共感という名の同情は、時に実力以下の結果を残す。
それは何ら特別なことではない。むしろ道理。感情があるからこそ力の方向性が定まり、意思なき力が魔王を倒すことは不可能だった。
なのに。
ミネルヴァの力には感情がない。アランを殺そう、という意思はあるのに、その動機がない。意味も理由もない。
なのに、否、だから、その力は常に一定の威力を維持し、同時に得体が知れないのだ。
姉テンペスト=ミネルヴァは、なんかよく分からないことに、無駄に強かった。
魔王ミラージュ=アランが、一度として勝てたことがない程度には。
アランの脇腹に血がにじむ。冷汗が流れる頬に陰りが落ち……かけたところで金の目は煌々と輝く。力強く上を向いた。ニィと歪んだおぞましい笑みが、最凶の姉に余裕を見せる。
「はっ、なんだ、今日はずいぶん優しいじゃねぇか」
嗤え。それこそが強さの証。アランにそう言ったのも、やはりこの女だった。
「おだまり。これしきの事で劣勢を見せるとは……やはり魔王にふさわしくはなくってよ」
煽りの言葉も、だがミネルヴァの表情は崩れない。鉄のブーツがガシャンと足音を響かせる。
時は夕刻に差し掛かっていた。
特に理由のない第二幕が、開かれようとしている。
「我が魂、真の魔王にのみ捧げる。愚かなる弟よ。今ここで死ぬがいい!」
ハルバードに魔力が集まる。集まった魔の力は白き羽の形をとり、より巨大に、より鋭く、より重く、より威圧的に、ミラージュ=アランを射程にとらえた。
食らえば今度こそ文字通り首が飛ぶ。だがそう簡単にやられはしない。アランもまた、めったに使わない矛の力を開放する。黒く毒々しい魔の力が、六角の輪に吸い込まれていく。
双方の力が解放されようとした、その瞬間。